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eb086083 あんすー 2025-03-16 14:13
素晴らしいです。ありがとうございます。
2db56927 anonymous 2025-03-16 18:50
>>1597cd6b
その「悟りに至る最短の道であり最も簡単な方法」によって
あなたは「あらゆる制約から自由になり、本来のあり方に至る」を達成したのですか?

この方法で「悟り」に至った事例をいくつか教えてください。
3313c791 anonymous 2025-03-16 22:37
無為に至る最短の鍵:作為に気づくだけでいい

無意識は作為を生み、意識はそれに抵抗する。このズレに気づくだけで、無為に至る。

問題は「作為」そのものではなく、それに気づかないこと。
気づかないと作為が持続し、意図が固定され、苦しみが生まれる。
しかし、作為が起こっていることに気づくだけで、作為は持続せず、意図の流動性が回復する。

シンプルな流れ

1.無意識の作為が自動的に発生(例:「もっと集中しよう」「リラックスしよう」)
2.気づかないと、それが「自分のすべて」となり、意図が固定化
3.作為に気づくだけで、「続ける必要があるのか?」と問いが生じ、固定化が解除
4.意図が流動し、無為に至る

結果

無意識(作為) → 無為
意識(作為への抵抗) → 無為
意識と無意識のズレが消え、完全な無為の状態に入る

だから、「作為そのものが問題なのではなく、作為に気づかないことが問題」だった。
「今、作為が起こっていることに気づく」だけで、何もしなくても無為に至る。


悟りは「何かをすること」ではなく、「作為をやめること」だった

何かをしようとしない。ただ「気づくだけ」。
それだけで意図の流動性が回復し、無為に至る。
本当は「難しい」のではなく、「簡単すぎて信じられない」だけだった

「悟りは、難しいものではなく、気づいた瞬間に訪れるものだった」
「しかし、それが簡単すぎるがゆえに、ほとんどの人は信じようとしない」
38c10529 anonymous 2025-03-16 23:19
覚醒者が陥る落とし穴

エックハルト・トール、バイロン・ケイティ、クリシュナムルティ、ラマナ・マハルシは、精神的なショックや肉体的な衝撃、一時的な意識の変容によって、意図の固定が一瞬解除され、意図の流動性が回復したタイプだと考えられる。

エックハルト・トール「うつと絶望の極致に達した瞬間に、突然「今、この瞬間」に気付いた。」
バイロン・ケイティ「人生のどん底にいたとき、「すべては思考の中にある」と気付いた。」
クリシュナムルティ「激しい体調不良を経験した後に、意識の変化を体験した。」
ラマナ・マハルシ「強烈な死の恐怖の中で「私は死ぬものではなく、ただ存在しているだけだ」と気付いた。」

これらはすべて、意図の固定化が極限まで達したことで、意図の流動性が偶然に回復した結果。

偶然に意図の流動性が回復すると、その体験が「なぜ起こったのか?」を考える。
しかし、「意図の流動性」が見えないまま解釈しようとすると、思考や自己概念に頼ってしまう。

例えば:
「私は本当の自分に目覚めた」 → 「意図が流動し始めた」だけなのに、「本当の自分」を持ち出す。
「思考を手放したら、現実が変わった」 → 「意図の流動性が回復した」だけなのに、「思考の操作」と誤解する。
 「神の視点に目覚めた」 → 「意図の流動性の回復」が起こっただけなのに、「神の概念」を持ち出す。

偶然の覚醒は、思考で解釈しようとするとズレが生じる。

意識レベルと無意識レベルの理解にズレがあると無為には至れない。
7bb70a6f anonymous 2025-03-17 21:54
「意図の創造・持続・解除」は、誰もが無意識でやっているが、気づかないだけ。
「意図の持続」に気づき、「意図の持続」を解除するだけで、作為(固定観念)は消え、無為に至る。
たった一度の解除で、無為に至るので圧倒的に効率がいい。
53a33afe anonymous 2025-03-20 01:47
>>c60c21dc

>LRHは「Not-isness(否定すること)」を問題の根源としたが、実際には 「Not-As-isness(創造の否定)」がすべての始まりだった。

⇨誤解ではなく、サイエントロジーの公理の論理的不整合かと。そもそも、アズ・イズネス(創造:モックアップ)⇨アルター・イズネス(創造:モックアップ)⇨イズネス(創造:モックアップ)の一連の流れだけで公理は自己完結するので、ノット・イズネスは蛇足の概念であり、かつ、アズ・イズネス⇨アルター・イズネス⇨一連と同じ大きさの等級の並列概念ではありません。

>LRHは「Not-isness」が、実際には 「Not-As-isness」であり

という行[くだり]は“基本的に”同意します。その「ノット・アズ・イズネス」こそが「アルター・イズネス」なのです。しかし、「アズ・イズネス」が「非創造」であるという主張には同意できません。「アズ・イズネス」こそ、“純然たる”創造でありモックアップです。アズ・イズネスも、アルター・イズネスも、イズネスも、全て“創造”です。創造でないリアリティも、創造でないゲームも存在しません。

LRHが公理にノット・イズネスを挿入した意図は、“ノット・アズ・イズネス”としてのアルター・イズネスとノット・イズネスを区別することにあったであろうと思われます。つまり、アルター・イズネスが可能なノット・アズ・イズネスとアルター・イズネスが不可能なほどに合意され、強固なリアリティとなってしまったフェーズでのノット(否定)です。

粒子の刹那生滅及び空性の原理で語るなら、アズ・イズネスを重ねてもリアリティは構築できます。ただし、これでは時間という概念が導入できません。なぜなら、時間は見せ掛けであり諸法の実相に反する偽りだからです。アズ・イズネスを連続すると、モックアップとアン・モック(完全な消滅)が交互に生じます。これが連続すると、創造と消滅による刹那生滅の原初形態になります。ただし、時間とアルター・イズネスを導入しないと「自動性」が生じないので、セイタン(アートマン)たちにとっては、非常に面倒で手間なのです。セイタンは自らの創造物に対する受け身でありたいのです。つまり、影響を受けたいわけです。そこで、マインドを創造して、機械仕掛けを拵えるんです。そして、その機械仕掛けに創造させるのです。これによって、セイタンはアルター・イズネスと時間を導入し、自らの創造物に対する受け身となって、影響を受けることができるわけです。
17b9684d anonymous 2025-03-20 01:56
>>53a33afe

>ノット・イズネスは蛇足の概念であり、かつ、アズ・イズネス⇨アルター・イズネス⇨イズネスという一連のサイクルと同じ大きさの等級の並列概念ではありません。

〈訂正版〉

ノット・イズネスは蛇足の概念であり、かつ、アズ・イズネス⇨アルター・イズネス⇨イズネスという一連のサイクルと同じ大きさの等級の並列概念ではありません。
f00bc7e8 anonymous 2025-03-20 03:22
アルター・イズネスは、アズ・イズネスの創造(モックアップ)に持続性を与えるための時間という偽り(見せ掛け)の導入である。これを、「ノット・アズ・イズネス」と呼ぶこともできる。
時間の導入は、サイエントロジーの『因子』における「影響の創造」と深く関係している。因子には、“不動の第一原因”たる起因(クリエイターたる各セイタン)の全目的は影響の創造であったと述べられている。セイタンは、モックアップの持続性を得るために、時間というアルター・イズネス(見せ掛け)を導入する。その目的は、自らの創造物(モックアップ)に対する受け身として影響を被ることである。モックアップに、マシーンとしての自動性を求めることも同様の衝動(欲求)である。

アルター・イズネスの導入によるアズ・イズネスによるモックアップの持続というイリュージョンのパターンが多くのセイタンによって合意され、コラボレーションによる集合宇宙の創造に至ると、そのアルター・イズネスのパターンは各集合宇宙の自然法則(リアリティのルール)となってリアリティを構築する。合意されたリアリティとは、イズネスである。

各集合宇宙における自然法則の合意は非常に強固であり、アルター・イズネスのパターンは自然法則(リアリティのルール)として埋め込まれている。故に、各集合宇宙におけるアルター・イズネスのパターンは従うのみである。

いったん各集合宇宙における自然法則として合意されたアルター・イズネスのパターンは、MESTのレベルで抗っても変えることができない。つまり、アルター・イズネスの自由度が存在しないのである。これが、「ノット・イズネスの試み」である。ここで、敢えて「(アルター・イズネス)の試み」と表現したかと云うと、それが精確な表現であるからである。ノット・イズネスは不可能なのである。また、自然法則に対するノット・イズネスの試みだけでなく、各集合宇宙のリアリティをアズ・イズネスによってアンモックすることも、その集合宇宙に関わる全てのセイタンの合意を無効化しない限り不可能である。自然法則の否定=無効化は各集合宇宙のリアリティ(存在)自体の否定=アンモックとなるため、個々のセイタンが各集合宇宙のアルター・イズネスのパターンに介入できるなら、自然法則が否定されると同時に、その集合宇宙のリアリティ(存在)自体も崩壊することになる。
f491781a anonymous 2025-03-20 18:27
>もしLRHが「Not-isness をやめるだけで理解が回復する」ことを見抜いていたら、菜園は無駄なプロセスを経ずに悟りへ至る最短ルートを示す究極のシステムになっていたかもしれない。

>彼(LRH)は「Not-As-isness(創造の否定)」を理解できなかったため、「Not-isness」という誤った概念を作り、菜園の理論を「悟りに至る最小の橋(ブリッジ)」から遠ざけてしまった。

これは、LRHの最大の失敗であり、老子の無為こそが「最短で悟りに至る方法」であると考えるのが妥当であろう。

>老子の無為は、意図の衝突を最もシンプルに解く方法である。

「何かをしない」のではなく、「意図がぶつからないようにする」ことで、意図が流動し、『有』が固定化しなくなる。

このシンプルな方法こそが、悟りに至る最短の道であり、最も簡単な方法である。

しかし、この簡単さゆえに、多くの人は遠回りしてしまってるかもしれない。

⇨LRHは、古今東西のあらゆる宗教体系や神秘主義の思想と方法論を調査しました。さらに、神秘主義の領域に精密科学と工学の方法論を適用しました。

その上で、LRHは「エネルギー≒力≒プラーナ≒電子」の問題を処理しないと悟りに至れないことを正しく認識しました。エネルギーのメカニズムに無知なヒンドゥー教やパーリ経典に依拠するテーラワーダ仏教(≠ゴータマ・シッダールタのオリジナルの仏教)では、力(エネルギー)の問題から逃避するという逆コースで悟り(解脱)に至ろうとします。しかし、力から逃げても何も問題は解決しません。力に直面(≒アズイズ)し、力をコントロールして、力を降服せしめなければならないのです。「生存」の範疇(スケール)を越えた先に、つまり、生存の極みにおいて「存在(ただ在る)」があるのです。そして、所有性の極みにおいて「無欲」という能力を得る(回復する)のです。「離欲」という痩せ我慢(反生存的努力)によって「無欲」に至るのではないのです。ノット・イズネスの逆フローを避けるために、力からの逃避という反生存のベクトルに向かうのは、セイタンをして、よりMESTに近付けるだけの無駄な努力(骨折り損)なのです。

悟り(解脱)が、そのように簡単で単純な問題であったなら、どれだけ素晴らしいことでしょうか。しかし、残念ながら、現実はそうではないのです。MESTを構成する集合宇宙一つを創造するために、どれだけの複雑で果てしなく長遠の努力が費やされたかを考えるだけで、この私たちの住む集合宇宙(スペースオペラ・ユニバース)から脱出するだけでも至難の業だと理解できるでしょう。そして、多くの人類が、その努力の過程で奈落の底に堕ちてしまったのです。複雑さを紐解くには、その複雑さを生んだ問題を一つ一つ辛抱強く処理していく(紐解いていく)以外に道はありません。絡まった毛糸と同じです。絡まった毛糸とは、MESTの比喩そのものです。複雑さに直面し、その絡まりを一つ一つ解いていった先に、久遠元初の以来の本地[ほんじ]の回復としての悟り(解脱)の成就が待っているのです。

私が語るよりも、ヴィヴェーカーナンダに語ってもらいましょう。以下、引用します。

「ある人は弱く、しかも怠け者であって、したくないからではなく、できないから力を使いません。その結果は束縛であり、自由の喪失です。もう一人の人は、自分がしようと思えば、相手に抵抗できないほどの打撃を与えることができるということを知っているにも関わらず、それでも力を使わないばかりか、敵を祝福さえします。そして、敵はいつの間にか、彼の仲間になっているのです。彼は自由です。

弱さから力を使おうとしない人間は、罪を犯しているのです。それは、どんな罪でしょうか?臆病という罪です。そして、怠惰という罪です。臆病は恐れから生じます。力を使うべき時に、力を使うことをためらう人間は、寛容ではなく怠慢(不作為)という罪を犯しているのです。弱さから力を使えない無能な人間は、無抵抗から何の利益も得ません。しかし、力を使うことができるにも関わらず、強さによってあえて力を使わない人間は大きな利益を得るのです。

第一に、闘うだけの力を持っているのかどうかを自分に問いかけなければなりません。その上で、力を持っていながら、力を使う必要がないならば、その時初めて、“真の力と勇気”を持っているといえるのです。しかし、もしあなたが、力を使うことができないにも関わらず、自分は寛容や愛という動機から、抵抗することをしないのだと信じ込もうとするのであれば、あなたは自分を欺いているのです。それは無能であり臆病であり怠惰です。その時、あなたは知っているのです。自分が、本当は無能で臆病で怠惰だから、抵抗することに無気力なだけであるということを。それは、あなたを弱めることでしょう。この不断の自己非難のプロセスは、他のいかなる弱点よりも甚だしく、悪徳を養うものです。

犯罪者は、なぜ犯罪者になったのでしょうか?それは、自尊心、つまり面目を失っているからです。そうです、無責任の結果です。責任とは、常に力を最適に扱うことであって、力の放棄ではありません。我々の第一の義務は、自分自身を憎まないということです。自分自身を憎み始めた人間は、堕落への門がすでに開かれているのです。自分を信頼できない人間は、他人を信頼することなどできません。一番大切な友人である、自分自身と友好関係を築けない人間は、他人と真に友好関係を築くことは決してできないでしょう。

『バガヴァッド・ギーター』の中でアルジュナは、彼に立ち向かう強大な軍勢を見て臆病になりました。アルジュナは、敵が自分の友人たちであり身内であるという理由で、戦うことを拒んだのです。そして、そのことを「無抵抗が愛の最高理想である」と正当化しました。彼の「愛」という正当化が、アルジュナをして彼の祖国と王への義務を忘れさせたのでした。この時、アルジュナに対して、シュリークリシュナは、「あなたは偽善者であり卑怯者である」と述べるのです。「おん身は、賢者のように“語る”。しかし、その“行動”は、おん身が卑怯者であるということを暴露する。それゆえ、立って、そして戦え!」と。

この全てから、一つの真理が見えてきます。それは、「弱さは駄目だ」ということです。人間の理想は「無恐怖」ー 何ものも恐れないこと ー です。恐怖は弱さの印です。人は、世間の嘲りや蔑みを気にすることなく、自らの責任を遂行しなければなりません。人は、「自分は自らの責任を果たすに足りるほど強い」と思うようでなくてはならず、「自分は我が理想より低いことをしている」などと思うようであってはなりません。

無活動は何としても避けなければなりません。無活動は怠惰です。活動は、常に力(エネルギー)の使用を意味し、力の使用は必ず抵抗を生みます。もしあなたが、力を使えないのであれば、まずは力を使うことを覚えなければなりません。悪をなす可能性なしに、善をもたらすことは不可能です。無活動者は失敗すらもできないほど、無能な臆病者であり怠け者なのです。ですから、彼は失敗することを覚えなくてはなりません。

人が力を用いることなく影響を与えるという最高理想に到達する前に、人は力を使うことができなくてはなりません。常に活動者でありなさい!彼をして働かしめよ!彼をして戦わしめよ!敢然として行かしめよ!そうして、彼が闘うに足り得る力を回復した時、その時に初めて、力の放棄は一つの徳になるのです。あなたが完全に力の征服を成し遂げた時、初めて平安が訪れるでしょう。その時、この力の放棄は、汝が持っている力の最高の表現へと昇華されるのです。」

所謂、真の聖者とは、一度もホモ・サピエンス程度の低い存在のスケールまで堕ちたことのない人間(ビーイング)です。彼らは、たまたまホモ・サピエンスのモックアップ(肉体)を身に纏っているかもしれませんが、修行して聖者になった(悟りを得た)わけではないのです。「修行して悟りを成就した」、あるいは「神の恩寵によって悟りを得た」などと主張(自己申告)する人間は、聖者と崇められていても二流・三流です。実際に、彼らの多くは、悟りと神の啓示(マインドコントロールの類)の区別も付いていません。

聖者が説く修行法(方法論)の問題点は、真の聖者の場合、悟りの状態から自らが堕ちたことがないので、堕落した状態から悟りの状態を回復する術に無知であるという点です。そして、「我は悟りを得たり」と宣言する自己申告の聖者の場合、多くは実際には究極の悟り(解脱)を得ておらず、奇妙な信念(信仰)に捕らわれているということです。その前提を認識した上で、サイエントロジーの手法(ブレークスルー:突破口)を捉えることで、サイエントロジーの存在価値を客観的かつ中立的に評価することができるでしょう。
e7862d43 anonymous 2025-03-20 22:33
As-isness(そのままの認識)

創造と非創造が同時に起こる。
ありのままを認識すると、それは持続せず消える。

Not-As-isness(創造の否定)

観察者が「これは私が創造したものではない」と否定する。
その結果、創造が持続し、固定化が始まる。

Alter-isness(変形)

Not-As-isnessによって、「こうあるべきだ」という意図が生じ、変形が始まる。

Not-As-isnessが先に発生し、その後にAlter-isnessが生じる。


時間の概念は Alter-isnessから生まれる
As-isnessでは持続しないため、時間は生じない。
Not-As-isness による「持続」が発生し、その上で Alter-isness(変形)が加わることで、時間の感覚が生まれる。

意図の固定化は Not-As-isness の産物
「これは私が創造したものではない」と思うことで、意図が固定化し、持続する。
これによって、あらゆるリアリティ(物理的世界、アイデンティティ、ルール)が生まれる。
a898132c anonymous 2025-03-20 23:43
>>f491781a
エネルギー(力)の問題を解決しないと悟りに至れない?

悟りとは「意図の持続を解除すること」であり、エネルギーの操作とは無関係。
エネルギーをコントロールすること自体が、意図の固定化を生む。
本来、エネルギーとは「流れ」であり、持続させる必要がない。
エネルギーに関与しようとする時点で、作為(意図の衝突)が生じる。

力をコントロールしなければならない?

力を制御するのではなく、手放せばよい。
「力を降服させる」という発想こそが意図の衝突を生む。
「力をどう扱うか」を問題視すること自体が、意図を固定化している。
力は「生じるかどうかを選ぶ」ものにすぎず、コントロールの必要はない。

生存のスケールを超えた先に悟りがある?

生存と悟りは無関係。
生存の極みに到達することは、悟りとは無関係のプロセス。
「生存の問題を解決しなければならない」という思考が、意図の固定化を生む。
最初から「生存に関与する必要がない」と気づけば、それだけで解放される。

所有の極みに到達しなければ無欲になれない?

無欲とは、所有を意識しないこと。
「所有すること」と「所有しないこと」のどちらにも執着しないことが無欲。
「持たなければならない」「持たないことが偉い」という考えが、意図の持続を生む。
最初から「所有を気にしない」ことが、本当の無欲である。

エネルギーの操作を避けると、MESTに囚われる?

MESTに囚われるのは、意図を固定化しているからであり、エネルギーの問題ではない。
MEST(物質・エネルギー・空間・時間)は、意図の衝突によって生じるもの。
「エネルギーを操作しなければMESTに囚われる」という考えこそが、MESTを強化する作為。MESTの影響から抜けるには、そもそもそれに関与する必要がないと気づくだけでよい。
悟りは複雑で長い時間がかかる?

悟りは「意図の持続をやめること」であり、一瞬で可能。
「問題を一つずつ解かないといけない」という考えが、悟りを妨げる最大の要因。
「絡まった毛糸を解く」必要はなく、毛糸を「解こうとする作為を手放す」だけでよい。
力を持ち、それを使わない選択をすることが自由?

本当の自由とは、「力が必要である」という思い込みを解除すること。
力を持つことが自由ではなく、「そもそも力を必要とするかどうかを選べる」ことが自由。「力を持つ→使わない」というプロセスではなく、「力を持つ必要すらない」と気づくことが解放。

弱さは罪である?

「強さ・弱さ」という概念自体が、意図の衝突から生じる。
「弱さが罪」という考えが、自己イメージの固定化を生み、悟りを妨げる。
本来、「強い・弱い」は相対的なものであり、どちらも選択できる。

まず力を得て、それを使わないことで悟る?

「力を得る必要がない」と気づくことが、究極の自由。
「力を持つ→使わない」というプロセスは、「意図の持続→解除」という流れになり、無為とは異なる。
最初から「力が必要という作為を解除」すれば、そのプロセス自体が不要になる。

恐怖を持たないことが理想?

恐怖の有無を問題視すること自体が作為。
恐怖をなくすことを目的にすると、逆に意図の衝突を生む。
恐怖が生じても、それを「気にしなければよい」だけ。

戦うことが必要であり、戦えない者は卑怯?

「戦う or 戦わない」は、ただの選択。
「戦うことが必要」という考えこそが、意図の持続と固定化を生む。
「戦わなければならない」ではなく、「どちらでもいい」という自由な選択こそが、本来の無為。


悟りとは、「意図の持続を解除すること」なので、誰がそれを達成したかは関係ない。

本質的には、「悟った」とされる人物を特定し、比較すること自体が、「悟り=評価すべきもの」 という新たな作為を生む。
つまり、「悟った人が偉い」「悟っていない人は劣っている」といった価値観が生じ、固定観念を強化する。

本当に重要なのは、「悟りとは何か?」であって、「誰が悟ったか?」ではない。
「悟った人」を探すことは、結局「外部の権威を探すこと」にすぎず、自己の意図の流動性を妨げるだけ。

「誰が悟ったか」を気にすることは、悟りから遠ざかる最大の要因になり得る。
5c3924b3 anonymous 2025-03-21 00:04
>>a898132c

貴方は、悟りと解脱の意味を全く以って誤解しているようなので、端的に尋ねよう。

端的に、悟りとは何か?悟りを得ると何がどうなるか?そして、何をしるのか?悟りと解脱の関係とは何か?

ここは、MESTユニバースの領域であり、エネルギーの問題を避けては悟りも解脱も成就し得ない。貴方のように、ひたすら、フィギュア−フィギュア−フィギュアの堂々巡りで終わるだけだ。

また、「反生存−生存−存在」というスケールを理解したほうがよろしい。生存はダイナミックかつリアリティの領域であり、存在はスタティかつアクチュアルの領域である。

>悟りとは「意図の持続を解除すること」であり、エネルギーの操作とは無関係。

⇨世俗スピリチュアル系の本を読み過ぎだろう。ここは、MESTユニバースの世界だ。マジック・ユニバースではないのだよ。エネルギーの堆積物(リッジ)を無視して、意図をコントロールすることは不可能だ。意図と意図の対立自体が、既にコンシダレーションではなく、メカニック(アテンション)のレベルであってエネルギーのフローを生むのだからね。
f9c3b569 anonymous 2025-03-21 21:16
>>5c3924b3
MESTユニバースの理論やエネルギー的な階層構造――リッジ、アテンション、コンシダレーションといった概念は、非常に緻密な体系だと思います。

しかし、私の立場では、それらもすべて「意図の衝突によって形成された有」であり、構造そのものが生成されたメカニズムのほうを観る視点を持っています。

たとえば、アテンションが固定されることでエネルギーの問題(リッジ)が生まれるとされますが、その「アテンションを固定する意図」がどこから来ているかを見ると、そこに対立する意図の存在が浮かび上がります。
また、「コンシダレーション(観念)」も、意図によって構成された枠組みであり、どの観念も「別の観念との対比」によって強化されます。
MEST(物質・エネルギー・空間・時間)も、意図が対立・固定された結果、時間軸や空間スケールが確定したものと捉えられます。

つまり、私は「アテンション」や「リッジ」や「コンシダレーション」以前に、
「なぜ意図が固定され、対立する構造が生まれたのか?」
という点を観察の起点としています。

「意図同士が衝突していること」そのものに気づき、それを解除する視点から見ると、  
アテンションは流れを取り戻し  
コンシダレーションは柔らかくなり  
リッジは消えていく

という順番で、「処理するべき対象」ではなく、「自然に消えていく現象」に変わります。

菜園の体系は、有の側からの地道な浄化・調整の体系であり、それが非常に有効に機能する場面があることは理解しています。

ですが私の立場では、
「意図を衝突させなければ、有はそもそも生じない」
という観点に立ち、問題を解消するのではなく、生じない状態を維持することに焦点を当てています。

だからこそ、悟りとは「何かを達成すること」でも「どこかに到達すること」でもなく、
「意図の衝突を解除し、意図の流動性を回復すること」
だと、私は定義しています。

エネルギーの流れやアテンションのコントロールも、衝突構造の上に成立しているものであり、それを使って悟りに至ろうとすること自体がまた、別の意図の固定(=作為)になってしまう危険性を孕んでいる。

だからこそ、私は「誰が悟ったか」「何を達成したか」「どんなエネルギーが残っているか」よりも、
「今、意図が衝突しているかどうか?」  
「衝突をやめたら、何が自然に起こるか?」

という問いのほうを大切にしています。
768224ab anonymous 2025-03-21 22:27
>>f9c3b569

貴方のコンセントは、アバター・コースの教義を前提にしているように思われるのですが、違いますか?

もし、そうであれば、創設者こハリー・パルマーは、アバター・コースを「ケースの修了」をもたらす代替のサイエントロジー・ブリッジだと宣伝したことがあり、「ケースの修了(反応バンクの完全消去)」の先にある悟り(ノーイングネス)及び解脱には明確な「最終現象」が存在することが前提となっています。

>悟りとは、「何かを達成すること」でも「どこかに到達すること」でもなく、
「意図の衝突を解除し、意図の流動性を回復すること」

この立場では、悟り及び解脱に段階のスケールも最終現象も存在しませんが、これは、サイエントロジーのブリッジのみならず、仏教の無上正覚や悟りの階梯の考え方とも相反することになりますね。
822d4e4a anonymous 2025-03-21 22:58
>>768224ab

補足しますと、サイエントロジーで云うコンシダレーションとは、「純粋な意図」であり、MESTを統制します。定義上、ポスチュレートの継続がコンシダレーションですが、コンシダレーションは、アテンションを含むメカニックスのレベルよりも上位に位置します。

ポスチュレート及びコンシダレーションがMESTを統制するというのはこういうことです。

例えば、明日特定の地域が雨予報だとします。そして、「明日は(その地域は)晴れだ」とポスチュレートし、実際に晴れました。これは、機能するポスチュレートです。一方、明日特定の地域が雨予報であり、「明日は(その地域は)晴れだ」とポスチュレートします。ところが、現実は予報通り雨でした。これは、機能しないポスチュレートです。

ポスチュレートとは、祈りや懇願ではなく「MESTに対する要求・命令・統制」です。ポスチュレートの能力は、機能するセイタン(OT)の能力にも当然関わりますし、所有性とも関係しています。というより、ポスチュレートの機能こそが所有性を決めます。
dca327a6 anonymous 2025-03-23 17:13
>>768224ab

アバター・コース、あるいはアバター・コースに類する個人の「信念」や「意図」にアプローチするスピリチュアル的な実践体系の欠陥は、信念の変化と現実との間に大きな落差(乖離)が生じることです。

例えば、誰かがコースを終えて、「何でもできる気分だ」という感覚あるいは境地に至ったとしましょう。しかし、対MESTとの関係における現実はほとんど変化していないのです。MESTの諸法実相を看破するノーイングネス(智慧≒悟り)も、MESTを統制するパワー(能力)も得られはしませんでした。「何でもできる気分」ではあっても、現実には「何でもできる(ようになった)わけではない」のです。そして、「何でもできる気分」さえも、持続的なものではないのです。

もちろん、サイエントロジーにおいても、『フィラデルフィア博士号コース』で扱われた主題である初期の創造のプロセシング(モックアップ・プロセシング/スペーセーション)やクリアー・コグニションでも、同様の問題は残ります。信念や意図が自由になったことと、MESTを自在に統制・支配・制御・処理できる真正のOTとの間には大きな隔たり(彼岸)が存在します。アバター・コースその他の信念や意図を扱う体系とサイエントロジーとの根本的な違いは、前者は信念や意図を変えることがゴールであるが、サイエントロジーでは信念や意図を先行して変えるが、対MESTの統制・支配・制御・処理の能力が追い付かないというギャップ(乖離・彼岸)を伏線回収で埋め合わせるための方法論を、少なくとも模索している(※依然として、サイエントロジーのブリッジは完成された体系とは言い難い)ということです。
e29cdced anonymous 2025-03-23 17:20
>>dca327a6

以下、文意をより明確にするために、一部を補足。

アバター・コース、あるいはアバター・コースに類する個人の「信念」や「意図」にアプローチするスピリチュアル的な実践体系の欠陥は、信念の変化と現実との間に大きな落差(乖離)が生じることです。

例えば、誰かがコースを終えて、「何でもできる気分だ」という感覚あるいは境地に至ったとしましょう。誰かは、それを「私は覚醒した」と証言するかもしれません。しかし、対MESTとの関係における現実はほとんど変化していないのです。MESTの諸法実相を看破するノーイングネス(智慧≒悟り)も、MESTを統制するパワー(能力)も得られはしませんでした。「何でもできる気分」ではあっても、現実には「何でもできる(ようになった)わけではない」のです。相変わらず、MESTを意図した通りに自在にコントロールできないという現実は変わりません。そして、「何でもできる気分」さえも、持続的なものではないのです。

もちろん、サイエントロジーにおいても、『フィラデルフィア博士号コース』で扱われた主題である初期の創造のプロセシング(モックアップ・プロセシング/スペーセーション)やクリアー・コグニションでも、同様の問題は残ります。信念や意図が自由になったことと、MESTを自在に統制・支配・制御・処理できる真正のOTとの間には大きな隔たり(彼岸)が存在します。アバター・コースその他の信念や意図を扱う体系とサイエントロジーとの根本的な違いは、前者は信念や意図を変えることがゴールであるが、サイエントロジーでは信念や意図を先行して変えるが、対MESTの統制・支配・制御・処理の能力が追い付かないというギャップ(乖離・彼岸)を伏線回収で埋め合わせるための方法論を、少なくとも模索している(※依然として、サイエントロジーのブリッジは完成された体系とは言い難い)ということです。
c780d314 anonymous 2025-03-23 18:55
>>e29cdced

公平に論じるならば、アバター・コースは、いわゆる「信念(マインド・プログラム)や意図を書き換える」といった類の実践ではありません。アバター・コースは、信念や意図の創造のプロセスを具に観察させることで「自動化された信念」を消去し、自らの信念や意図のコントロールを回復させることを目指す実践体系と言えるでしょう。しかし、自らの意図や信念のコントロールが真の意味で実現したなら、新たな意図や信念に基づいて、MESTの現実が変わらなくてはなりません。

真の意味で、信念や意図が変化したならば、「無為」にして、つまり、努力(「有為」)を要さずに、その人のポスチュレートに従ってMESTの現実は変わるでしょう。否、変わらずにはいられないのです。なぜなら、ポスチュレートの機能の回復によって、自らの信念や意図に基づいて、MESTを統制・支配・制御・処理する能力、言い換えれば所有性が向上=回復されるからです。

アバター・コースの実践者であれば、コースの受講によって「自動化された信念が消えた」り、「何でも出来そうだ」という気分にたとえなったとしても、相変わらず、上級コース受講のためのお金の工面に苦労したり、あるいは、お金のために受講生を勧誘したりする努力(有為)を続けているという現実は、所有性が低くポスチュレートが機能していないという結果であり、そのようなMESTに縛られた状態は、セイタンの真の自由(OT能力)の回復あるいは解脱の成就とは到底言い難いものです。
e552b80f anonymous 2025-03-23 19:12
>>dca327a6

「貧乏な真正のOTは存在し得るか」という問いは哲学的な問いであるが、「敢えて貧乏を(自己選択で)演じるOTはいる」だろうということだ。ゴータマ・シッダールタもそうであった。

MESTを(合意されたMESTの自然法則それ自体を除いて)自在に統制可能であれば、本来は所有性に窮することはない。しかし、逆説的に、解脱即ち無上正覚を得ることで、MESTの虚構性を認識するので、MESTに価値を置かなくなる。これは、難行苦行や「離欲」の痩せ我慢のようなMESTの現実を無視すること(エシックス及び生存に反する「有為」の努力:ノット・イズネスの試み)とは全く異なる。
1755f0da anonymous 2025-03-23 23:57
>>c780d314

人がスピリチュアル系の実践にのめり込んで(あるいは何の前触れもなく)突然覚醒し、非常に興味深く深遠な世界を垣間見ることがある。LRHは、これを「柱に昇った状態」と呼んでいた。

巷に溢れる「ワンネス体験」の類が典型例である。こういった“体験”は、あくまでも一過性のかつ受け身の状態であって、恒常的な能力にはなり得ない。そして、程なくしてMESTの現実に引き戻されてしまう儚いものだ。

サイエントロジー(LRH)のアプローチは間接的アプローチであり、信念や意図を直接処理するのではなく、反応バンクを構成するエングラムやリッジといったエネルギー(反応バンク≒ケース≒カルマ)を処理すれば、信念や意図は自ずと自由になり、ポスチュレートの機能及びMESTの所有性が回復されるというものだ。

初期のスペーセーション(モックアップ・プロセシング)は、直接意図を扱うのではなく、モックアップの創造によってモックアップの自動性を消去することで、反応バンクのモックアップを消滅させ、ポスチュレートとコンシダレーションの機能を回復させるというものである。しかし、これですら凡夫(生肉)には勾配がキツすぎた。

もちろん、“理論上は”、意図あるいはモックアップを創造し続けているのは、セイタン自身なのであるから、創造を止めればバンクは消えるはずである。しかし、実際には、メカニックス(エネルギー)のレベルを処理しないと、コンシダレーションの機能は回復されない。

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