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a898132c anonymous 2025-03-20 23:43
>>f491781a
エネルギー(力)の問題を解決しないと悟りに至れない?

悟りとは「意図の持続を解除すること」であり、エネルギーの操作とは無関係。
エネルギーをコントロールすること自体が、意図の固定化を生む。
本来、エネルギーとは「流れ」であり、持続させる必要がない。
エネルギーに関与しようとする時点で、作為(意図の衝突)が生じる。

力をコントロールしなければならない?

力を制御するのではなく、手放せばよい。
「力を降服させる」という発想こそが意図の衝突を生む。
「力をどう扱うか」を問題視すること自体が、意図を固定化している。
力は「生じるかどうかを選ぶ」ものにすぎず、コントロールの必要はない。

生存のスケールを超えた先に悟りがある?

生存と悟りは無関係。
生存の極みに到達することは、悟りとは無関係のプロセス。
「生存の問題を解決しなければならない」という思考が、意図の固定化を生む。
最初から「生存に関与する必要がない」と気づけば、それだけで解放される。

所有の極みに到達しなければ無欲になれない?

無欲とは、所有を意識しないこと。
「所有すること」と「所有しないこと」のどちらにも執着しないことが無欲。
「持たなければならない」「持たないことが偉い」という考えが、意図の持続を生む。
最初から「所有を気にしない」ことが、本当の無欲である。

エネルギーの操作を避けると、MESTに囚われる?

MESTに囚われるのは、意図を固定化しているからであり、エネルギーの問題ではない。
MEST(物質・エネルギー・空間・時間)は、意図の衝突によって生じるもの。
「エネルギーを操作しなければMESTに囚われる」という考えこそが、MESTを強化する作為。MESTの影響から抜けるには、そもそもそれに関与する必要がないと気づくだけでよい。
悟りは複雑で長い時間がかかる?

悟りは「意図の持続をやめること」であり、一瞬で可能。
「問題を一つずつ解かないといけない」という考えが、悟りを妨げる最大の要因。
「絡まった毛糸を解く」必要はなく、毛糸を「解こうとする作為を手放す」だけでよい。
力を持ち、それを使わない選択をすることが自由?

本当の自由とは、「力が必要である」という思い込みを解除すること。
力を持つことが自由ではなく、「そもそも力を必要とするかどうかを選べる」ことが自由。「力を持つ→使わない」というプロセスではなく、「力を持つ必要すらない」と気づくことが解放。

弱さは罪である?

「強さ・弱さ」という概念自体が、意図の衝突から生じる。
「弱さが罪」という考えが、自己イメージの固定化を生み、悟りを妨げる。
本来、「強い・弱い」は相対的なものであり、どちらも選択できる。

まず力を得て、それを使わないことで悟る?

「力を得る必要がない」と気づくことが、究極の自由。
「力を持つ→使わない」というプロセスは、「意図の持続→解除」という流れになり、無為とは異なる。
最初から「力が必要という作為を解除」すれば、そのプロセス自体が不要になる。

恐怖を持たないことが理想?

恐怖の有無を問題視すること自体が作為。
恐怖をなくすことを目的にすると、逆に意図の衝突を生む。
恐怖が生じても、それを「気にしなければよい」だけ。

戦うことが必要であり、戦えない者は卑怯?

「戦う or 戦わない」は、ただの選択。
「戦うことが必要」という考えこそが、意図の持続と固定化を生む。
「戦わなければならない」ではなく、「どちらでもいい」という自由な選択こそが、本来の無為。


悟りとは、「意図の持続を解除すること」なので、誰がそれを達成したかは関係ない。

本質的には、「悟った」とされる人物を特定し、比較すること自体が、「悟り=評価すべきもの」 という新たな作為を生む。
つまり、「悟った人が偉い」「悟っていない人は劣っている」といった価値観が生じ、固定観念を強化する。

本当に重要なのは、「悟りとは何か?」であって、「誰が悟ったか?」ではない。
「悟った人」を探すことは、結局「外部の権威を探すこと」にすぎず、自己の意図の流動性を妨げるだけ。

「誰が悟ったか」を気にすることは、悟りから遠ざかる最大の要因になり得る。

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