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15
old>>
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5f53ee5e
Old Timer
i1b5ibip3kS
2023-01-31 23:52
- >>d6e8dbb6
俺が書いた。
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d5034d32
Old Timer
i1b5ibip3kS
2023-01-31 23:59
- >>ffa49c1d
それもそうだ。 国家とヤクザは似ている。 国家には領土や領海があり、ヤクザには縄張りがある。 国家は徴税し、ヤクザはみかじめ料を巻き上げる。国家とは大成功したヤクザが作ったものなのだ。
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062c6e6b
Old Timer
i1b5ibip3kS
2023-02-04 00:00
- 1951年9月、 «生存の科学への追記1»、幅度: ❝それからマルクスは集団だけが重要だという理論を唱えた。❞
赤全集を通して読んでいる。これで3回目だ。最近、幅度はあまり学がないと感じるようになった。 マルクスは «共産党宣言» で民主主義を、 «資本論» で交換価値と自由市場を、 «ゴータ要綱批判» で成果主義と社会福祉を唱えている。 しかし、マルクスについて幅度の知識はアメリカの平均的な労働階級の人のそれと大差ない。
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56267432
anonymous
2023-02-04 03:42
- >>062c6e6b
「マルクスは «共産党宣言» で民主主義を、 «資本論» で交換価値と自由市場を、 «ゴータ要綱批判» で成果主義と社会福祉を唱えている。 しかし、マルクスについて幅度の知識はアメリカの平均的な労働階級の人のそれと大差ない。」
私は、オーストリアンの立場から、マルクスの『共産党宣言』と『ゴータ綱領批判』と『資本論』を読みましたが、オールド・タイマーさんの解釈こそ、不破哲三以上の曲解です。
マルクスは『共産党宣言』で「ゲバルト(暴力)」を梃子とした革命を展望しました。また、『ゴータ綱領批判』では、社会主義の青写真として、市場を介在しない「労働証書」による分配を論じました。この労働価値説(アービトラリー)に基づく分配計算は『資本論』とも絡んで、一冊の本人なるほどの“杜撰”つまり実装不可能なものです。そもそも、マルクスの史的唯物論の土台となった歴史分析が余りに幼稚で、あらゆる面に渡って修復不可能な論理的不整合があります。このことに、百万言を費やしても良いですが、またオールド・タイマーさんとの不毛なイデオロギーの論争になるだけでしょう。
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61494400
anonymous
2023-02-04 03:50
- >>56267432
一例を挙げる。
マルクスの史的唯物論は、封建時代の領主と現代(資本主義社会)のブルジョアジー(資本家)を同列に並べてるが、全くの誤りである。『資本論』も『ゴータ綱領批判』もこの前提が誤ってるから、当然、経済学も論理的整合性が全くない。
封建時代は領主がその土地の人民の支配者であるとともに雇い主でもあった。この時代の年貢や賦役は一種の税金である。マルクスは、封建領主の年貢と賦役が不払労働即ち可視的な搾取の証明であると説く(※一方、資本家の搾取に関しては不可視ゆえに、実証できないが理論的仮定として間接的に証明されるとする)。
一方、現代の資本主義社会(資本主義国家)は国家の指導者かつ国民の代表者である為政者と雇い主である企業が分離している。そもそも、現代資本主義国家の企業の真の所有者である株主は経営陣を雇うが、労働者を雇うのは経営陣である(資本と経営の分離)。
マルクスは封建領主の年貢と賦役を不払労働即ち搾取だと規定しながら、現代の資本主義国家における警察権を担保とした政府の徴税(権)の存在を完全にスルーして、封建時代の搾取(≒納税義務)を現代の資本主義社会における資本家の「搾取(※仮定の理論)」なるものに、そのままスライドさせている。
マルクスの元々の論理的前提に基づくならば、現代の資本主義国家における徴税は、不払労働即ち搾取そのものでなくてはならない。つまり、百歩譲って資本家の搾取が存在するにしても、搾取に現代国家の徴税が含まれていないことは、明らかな理論上の欠陥である。
また、マルクスは史的唯物論における社会形態の分類を、統治形態と生産/交換様式で分離せずに、生産様式でのみ分類している。そして、統治形態は権力支配の実態であるにも関わらず、下部構造(生産様式)に従属する上部構造として無視している。ゆえに、現代資本主義国家における政府という強大な権力機関の存在を(意図的か否かは不明だが)捨象してしまっている。この捨象という理論的誤誘導によって、ブルジョアジー(資本家階級)とプロレタリアート(労働者階級)という、マルクスの「資本主義=階級社会論」が導き出されている。
その他、マルクスの理論的欠陥は無数に存在する。
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8d36476e
Old Timer
i1b5ibip3kS
2023-02-04 09:38
- >>61494400
マルクスの親友エンゲルスは資本家であった。 マルクスはそもそもブルジョワ革命を高く評価している。 また、イギリスがインドを支配することを、インドの資本主義化を促すことができるという理由で、マルクスは支持したのだ。
マルクスは生産関係である下部構造を上部構造と分けて考えている。 "治形態と生産/交換様式で分離せずに、生産様式でのみ分類している" はマルクス解釈として正しくない。 マルクスは主に下部構造に関心を寄せ、それを自らの考察の領分としていた。 上部構造側についての注文は民主主義だけである。
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e9b1d7c9
Old Timer
i1b5ibip3kS
2023-02-04 09:39
- >>56267432
マルクス思想による暴力革命は民主主義体制の確立までのみにおいて許容される。 これは歴史の唯物的分析を踏まえており、具体的な事例として、フランス革命やアメリカの独立戦争がある。
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cca165b4
Old Timer
i1b5ibip3kS
2023-02-04 09:42
- 労働証書は社会において既に不完全ながら実装されている。タイムカードだ。
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83dd6a61
Old Timer
2023-02-04 10:26
- マルクス思想では、生産組織外の課題を民主主義、自由市場、成果主義、社会福祉の実現としているが、具体的な実現方法を述べているのは民主主義だけである。 民主主義が実現されれば、他の三つもやがて実現される。
生産組織内の課題は市場開拓、労働者技能向上、生産組織効率化である。 経済学の主流がこれらを扱うことに熱心ではなくなったので、これらを扱う別の学問が経営学として成立した。
幅度はマルクスを嫌ったが、菜園組織運営はマルクスが提示した課題に取り組んできた。
もちろん、社会は変化し、マルクス思想では扱えない現象も存在する。 これはケインズ思想についても同じで、ケインズ経済学はケインズが死ぬ前にアメリカですでに破綻した。 インフレ率を制御できなくなり、政府は物価統制に踏み切った。
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ed02b0a2
Old Timer
i1b5ibip3kS
2023-02-04 21:50
- >>83dd6a61
俺が書いた。
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b0fd9866
Old Timer
i1b5ibip3kS
2023-02-04 22:01
- 1951年11月、戴安寧聴聞士公示 第2巻 第5号, «権威主義についての随筆», 幅度: ❝例えば、キリスト教は人々の心を2000年間掴んだが、チンギス・ハーンの剣は人と領地を80年間すら飼いならせなかった。❞
凡庸な間違いだ。 モンゴル帝国自体は1206年に始まり、1635年に終わった。その後、1857年まで、チンギスの帝国の後継であることを誇らしげに主張する王朝が現れた。
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1f8b3ddd
anonymous
2023-02-04 23:09
- >>cca165b4
やはり、オールド・タイマー氏は、肝心要の欠陥に対しては、全くお答えにならない。私はマルクス主義及びマルクス経済学のロジックと縁が深いので、オールド・タイマー氏が広く薄い知識をまくし立てても全く痛くも痒くもない。
『ゴータ綱領批判』は社会福祉ではなく社会主義そして共産主義を展望するための著作だし、マルクスの「労働証書」は資本すなわち企業に雇用された賃労働(労働力の商品化)の廃止が目的である。そのために、資本≒企業という枠組みを解体し、アソシエーションに基づく連合労働に置き換えることで、私有物である資本を純粋な社会的生産手段へと変える。そして、市場メカニズムというブラックボックスと通貨(信用貨幣)を廃して、社会的計画生産と労働(時間)に基づく分配を実現する。これがマルクスの考えた(設計した)共産主義の前段階である社会主義社会の構想である。資本と賃労働を前提とした“タイムカード”が「労働証書」であるなど、噴飯物の珍説である。
マルクスの分配論には、二重の解決(実装)不能な命題が存在する。それは、搾取が廃止された社会主義社会においては、①いかなる基準で公平な報酬(※賃金とは言わない)を与えるか、②いかなる基準で商品/サービス(マルクス主義の用語では消費手段)の価値(※価格とは言わない)を定めるか、の二点である。
上記の二点を“市場を介在させずに”実装するのは、理論上も実装上も不可能である。特に、労働価値説に基づく正しい商品価値(資本主義経済では価格)の設定は至難の技だ。何故なら、最終消費財を生産するための生産手段を含む生産財あるいは消費財にも(過去)労働の価値が含まれているので、無限後退に陥るからである。
マルクスの云う社会主義による分配を実現するには、“個々の”消費手段(消費財)を労働時間で表現しなくてはならない。それこそが価値規定の意味だ。当然、個々の消費財には無数の労働が介在している。さらには、個々の消費財は、無数のパーツから構成されている。個々の消費財に関して、“精確に”労働時間で表現することができなければ、分配の問題は解けない。
マルクスの社会主義を実現するには、それを通貨(信用貨幣)と市場のメカニズムを介在させずに「労働証書」によって、かつ社会的計画生産によって実現しなければならない。それは、理論上も現実上の実装も不可能だ。
この解決不可能な分配問題(分配計算)という理論上の欠陥を、ソ連のマルクス経済学では、産業関連表や物材バランス(バランス評価)を使って解こうとしたが、当然のことながら失敗に終わった。
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f6094fa2
anonymous
2023-02-05 00:03
- >>e9b1d7c9
まず、ブルジョア革命という概念がまやかしだ。ブルジョア革命という(社会科学の)用語は、統治形態と生産様式を分離していない。ブルジョア革命は、資本家階級(ブルジョアジー)の政治支配を意味するが、国家権力と資本家階級の経済的支配の確立は別物である。また、ブルジョア革命の対概念であるプロレタリアート革命は、現実の歴史として実現されてはいない。
フランス革命(法の支配の破壊)とアメリカ独立戦争(法の支配の確立)の性格は全く別物である。これを、同じブルジョア革命で括るのはとんでもなく粗雑な“マルクス教”の思考である。合衆国憲法は、現存する(現役の)最古の成文憲法である。
フランス革命における憲法は使い捨ての憲法である。ジャコバン憲法は、ロベスピエールによってその施行を無期限に延期された。独裁者の恣意こそが最高の法であった。この憲法空位の無法状態の期間に、独裁者の恣意を国民に強制する恐怖の国家機関が設立された。それが、革命(人民)裁判所と公安委員会である。この革命裁判所と公安委員会は、フランス中にテロルと殺戮をもたらした。これのいったいどこが、自由をもたらす“民主主義”革命なのか?
では、なぜフランス革命は圧政とテロルで終わったのか?なぜ、憲法空位が許されたのか?それは、法の支配を破壊する、人民主権論とルソー流の「一般意志」に基づく民主主義至上主義によって、「憲法制定権力」なる三権を超越した国家権力機関の存在によってである。憲法制定権力とは、軍事クーデターで国家権力を掌握した軍部が設置する「国家●●評議会」のようなものをイメージしてもらえばわかるだろう。
憲法制定権力が制定した憲法は、憲法の名こそ関しているが、実際には寿命数年か憲法空位の使い捨て憲法であった。立法権絶対の独裁で始まったフランス革命は、最終的に、行政権絶対のナポレオン独裁体制で終わることになる。憲法制定権力なる絶対権力機関が存在する限り、いかなる憲法も名ばかりのものとなる。後の旧ソ連・東欧諸国の共産党という名の絶対権力がそうであったように。
マルクス/エンゲルスの述べた、「プロレタリアートの執権(ラテン語のディクタツーラ)」とは、分立された国家権力の各部分(三権)ではなく、共産党(共産主義者同盟)が国家権力の全体、つまり全権力を握るということを意味している。これは、英米法流の自由保守主義に基づく法の支配の破壊である。
社会主義法は大陸法の亜流であるが、大陸法は人定法至上主義に基づく法治主義であり、英米法流の法(≠人定法)の支配を軽視する。マルクス/エンゲルスの法概念は権力の道具としての法である。すなわち、大陸法の人定法至上主義を借用した、「プロレタリアート(という名の共産党[共産主義者同盟])の執権」、これが、旧ソ連・東欧の社会主義諸国において、共産党の絶対権力により国民の自由がことごとく蹂躪された歴史の根本的な元凶である。
ヒトラーおよびナチス・ドイツの統治を法の支配を破壊する「命令法学」によって正当化(弁護)した、詭弁法学者のカール・シュミットによれば、「過去から未来に渡る民族共同体の慣習たる法(≒國體)こそが憲法であり、ドイツ第三帝国の総統たるアドルフ・ヒトラーは、この民族共同体の全ての法の法源に由来し、民族の意志を体現する指導者である」という。
「私は、議会の信任によって国民の代弁者としての地位と権限を与えられた。ドイツ国民の言葉が私の言葉である。ドイツ国民のみに私は従属する。」(A・ヒトラー)
これは、ルソーの云う典型的な一般意思に基づく統治の表明である。即ち、一般意思の体現者がヒトラーであり、その権威は民主主義によって担保されていた。ナチス・ドイツは、民主主義至上主義の極左思想家であるルソー流の「一般意志」と反動保守の「國體」観念との悪魔合体である。
極左思想の「一般意志」と極右思想の「國體」観念は、その底流(すなわち、為政者による法の支配の破壊)において共通である。この極左と極右の悪魔合体こそが、ヒトラーとムッソリーニによる法の支配の破壊の正体である。
ムッソリーニもヒトラーも、ボナパルティズムの亜流であり、ナポレオンの劣化コピーの域を出るものではない。このような人定法の命令を至上の法と看做す統治は、英米法流の法の支配の破壊そのものであり、ボナパルティズムとフランス革命のイデオロギーは、法の支配の破壊という本質において同一である。
カール・シュミットの詭弁を、合衆国憲法起草者であるアレクサンダー・ハミルトンの『ザ・フェデラリスト』における「司法部の権能と判事の任期」よりの引用と比較してみよう。
「権力を制限する憲法とは、立法権に対して特定の例外、例えば私権剥奪法とか事後法などを通過させてはならないことを規定した憲法を意味する。この種の権力制限は、憲法の明白な種子に反する一切の立法行為を無効であると宣言するのが裁判所の義務なのである。」
「立法行為を、憲法に違反しているがゆえに無効と宣言する裁判所の権利(※違憲立法審査権)に関して、【この理論は結局のところ、司法部の立法権に対する優越を意味する】。」
この立法権に対する司法権の優越たる違憲立法審査権が存在しなければ、法の支配は成立しない。
重要なことは、司法権にコモン・ロー審査の権能が与えられていることである。合衆国憲法が初めて規定した司法による違憲立法審査権は、エドワーズ・コーク卿の『コーク判例集』の「コモン・ローは制定法に優位する」との法理を発展的に継承したものである。
法の支配の担保とは、為政者の権力の肥大化(権力欲の暴走)を抑制するのみならず、法律(人定法)の制定者たる為政者にコモン・ローを含む法≒ノモスの縛りを課すで、為政者の立法者としての権能と裁量を最小化させることである。
すなわち、法律(人定法)の制定者兼警察権の行使者たる為政者には、コモン・ローの審査員たる権能は与えては絶対にならないのである。ノモスの裁定権は、国民でも為政者でもなく、司法権に付与されるべきという立場が、ハミルトンの立場であり、コーク卿の本意でもある。
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d7d0d4c6
anonymous
2023-02-05 00:13
- >>062c6e6b
古典派及びマルクス経済学の前提である労働価値説自体がアービトラリー(まやかし)である。思弁ではなく観察(オブノーシス)に基づく経済学を確立しようと思うならば、アダム・スミスとデヴィッド・リカードの労働価値説から疑うべきだ。ここからが、リアル経済学であるオーストリアンの出番となる。
例えば、ブランド商品の付加価値などは労働価値説では説明できない。商品価値とはなんだろうか?それは、相対的(可変的)なもので、労働の介在の有無に関わらず、単に「稀少性」と定義する。
LRHが講演で述べているように、「価値の本質とは(単に)稀少性」である。稀少性≒価値は、財及びサービスの交換(エクスチェンジ)における相対的な欠乏で決まる。通貨(信用貨幣)の流通量に対して財/サービスの稀少性が高まればインフレーションであり、逆に、財/サービスの流通力に対して、通貨(信用貨幣)の流通の稀少性が高まればデフレーションである。オーストリアンも、LRHと同様の結論である。
LRHとは、「資本主義とは、欠乏のゲームである」と言う。その通りである。価値は欠乏によって変化するのだ。アービトラリーなのはマルクス/エンゲルスの理論のほうなのだ。
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c01b1a81
anonymous
2023-02-05 00:33
- >>d7d0d4c6
旧ソ連・東欧の社会主義国家はスターリン主義国家であり、マルクスの構想した社会主義国家ではない。だから、社会主義の実験は終わっておらず、失敗もしていないという主張が未だに存在する。だが、マルクスの構想を忠実に実装しようと奮闘した国家が存在した。それが、旧ユーゴスラビアの自主管理社会主義である。
マルクスの展望した社会主義の要件とは、「労働の開放(生産および労働と産業の民主化)」と「(市場と通貨を介さない)社会的計画生産」と「(自然改造や技術革新による)生産力の飛躍」の三つである。この同時達成は不可能である。
ソ連や(ユーゴ以外の)東欧諸国は、マルクスの“実現不可能な”命題の実装を、行政的な産業編成に基づく企業の国有化と共産党および政府の官僚による統制計画経済(事実上の配給制)で誤魔化して逃げた。
ティトー率いるユーゴスラビアでは、レ・スターリンモデルの社会主義に対抗するために、マルクスの命題に関して、アソシエーションに基づく「労働の開放」を優先した。もちろん、マルクスが展望した労働証書に基づく社会的計画生産は、最初から不可能だった。徴税も通貨(信用貨幣)に基づく賃金も温存されたし、中央計画経済はソ連型の党の独裁化を招くことが不可避である。ゆえに、市場を介した社会主義となった
旧ユーゴスラビアの自主管理社会主義においては、企業(正しくは労働連合組織)は、労働者評議会を通じた職場の代議員(リコール有り)によって統治され、また居住のコミュニティーにおいては、地域の代議員(リコール有り)を選出する(職場の代議員と地域の代議員は頂点の連邦議会で融合)という直接民主制が採用されていた。
自主管理社会主義モデルは、ティトーがスターリンに対抗するために、マルクスの理論に最大限忠実に、①資本≒企業という概念の解体(アソシエーションとしての連合労働)、②労働者による生産(手段)の直接管理、③国有でも私有でもない「社会的所有」概念の導入を行った。これは、完全な社会実験だった。
だが、難攻不落のティトーにおいても、実装不可能なマルクスの命題があった。それが、通貨の廃止(マルクスは「労働証書」を以って通貨と代替させることを構想した)および市場の廃止であった。結局、通貨と市場(これは実質的に「配給制」の旧ソ連・東欧の社会主義国には存在しなかった)は温存された。
ユーゴ(ティトー)流の自主管理社会主義だと、生産(産業)は民主化されるが労働分配が過剰になり、長期の投資が停滞する。生産(産業)における民主主義と効率性や生産性は相反する。生産における民主主義を重視するなら、生産性は諦める必要がある。
高度な生産力と産業(生産)における民主的意志決定は両立しない。なぜなら、経済における民主的意志決定の導入とは非効率そのものだから。そもそも、民主主義とは意志決定における非効率性とコストの許容。経済における民主主義より、生産力を重視するなら、資本主義市場経済の一択しかない。
労働の開放を重視するなら、ユーゴ型の自主管理社会主義になるし、社会的計画生産を重視するならソ連型の官僚統制経済になる。どちらも破綻した。もちろん、生産力と生産性を重視するなら、資本主義市場経済しかない。社会主義では生産力が飛躍するどころか、“墜落”不可避だからだ。
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391ab831
anonymous
2023-02-05 00:47
- >>c01b1a81
『ゴータ綱領批判』でマルクス/エンゲルスは、社会主義の体制においては、搾取が廃止される社会主義社会においては、「社会的控除」を除いては全て労働者の労働に応じた分の価値(消費手段即ち財やサービスを選択し購入する権利)が還元(分配)されると述べている。では、この社会的控除とは何か?
第一のカテゴリーは生産のための社会的控除であり、第二のカテゴリーはそこからさらに公共的なニーズ充足のための社会的控除が差し引かれる。第一のカテゴリーにおいては、①再生産、②拡大再生産、③保険としての基金である。
第二のカテゴリーにおいては、①生産の行政管理(企業の間接部門を含む管理運営や官僚機構)部分、②学校・公営住宅(社宅)・病院・社会インフラのような公共ニーズの部分。③労働不能者のための社会保障である。これら、①の一部と②と③は、資本主義国家の税金(徴税)に相当する。
この社会的控除の第二のカテゴリーにおいて、マルクス/エンゲルスは、①の生産の行政管理部分(企業[正しくは労働連合体]の管理運営部門や官僚機構)は、資本主義社会に比べて著しく減少し、②の公共ニーズ充足の部分は、資本主義社会に比べてますます拡大するだろうと述べている。
しかし、現実の旧ソ連・東欧諸国の社会主義体制を見ればわかるように、社会主義体制においては、上記①の生産管理部分(官僚機構)は、資本主義国家と比較して著しく肥大化した。ゆえに、社会主義体制においては、生産力が飛躍するどころか、リソースの浪費とイノベーションの停滞により著しく低下した。
また、官僚機構の肥大化とともに、国家の三権を支配下に置き、法の支配に縛られない共産党国家の絶対権力は、宗教警察的なイデオロギーによって国民の思想信条を統制し、それはまさに形而上学という上部構造による神権政治の唯物論版そのものであった。
マルクス/エンゲルスの述べたブルジョアジーによる階級支配というおとぎ話は、旧ソ連・東欧諸国においては、国家権力に寄生するノーメンクラツーラ(共産党幹部≒赤い貴族)という特権階級の支配にそのまま応用された。
社会主義国家の階級は出生で縛られる(つまり選別される)ゆえに、完全な貴族階級の支配する階級社会である。共産党に搾取される末端の労働者と農民階級は、居住と移動の自由も職業選択の自由もない奴隷階級である。階級が生まれで固定されているという残虐非道さは、資本主義社会の資産や所得に基づく格差の比ではない。
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bafbefb1
anonymous
2023-02-05 00:49
- >>8d36476e
下部構造と上部構造という社会構造の階層概念こそがアービトラリーの産物であり形而上学である。統治形態と生産/交換様式と文化/民俗/イデオロギーは、並列の相互作用の関係にある。マルクスは法秩序を上部構造と呼んで軽視したことが、法の支配(≠法治主義)および三権分立を破壊する共産党独裁の国家体制(党治支配体制)の成立をもたらす元凶となった。
マルクス主義の弁証法(弁証法的唯物論と史的唯物論)には、重大な欠陥が存在する。それは、ヘーゲルの絶対精神を無理やり共産主義に置き換えただけのものなので、共産主義で歴史が終わってしまうということである。つまり、事象のダイナミックを扱う弁証法でありながら、スタティックな形而上学(≒神学≒イデア)がゴールとして組み込まれてるのである。私がマルクスの思考を幼稚だと述べたのは、(能力に見合わない)壮大なビジョンを描こうとしながら、その中身が余りにも杜撰だからである。
そもそも、共産主義というユートピア自体が、地上に天国(神の国)を作るというローマ・カトリック教会の唯物論版でありし、マルクスのアソシエーショニズム(アナーキニズムの一種)としての共産主義は、イスラム教スンニ(主流)派のカリフ制アナーキニズムの社会体制とそっくりである。
マルクスの想定する共産主義は、①社会の生産力が高度に飛躍し人間が必要労働から開放され、②暴力装置としての国家権力が不要になる社会(それは擬制法人としての国民国家体制≒ウェストファリア体制の解体に他ならないだろう)という二重の要件が課されているが、そもそも社会の生産力と統治形態は別物である。
共産主義の本質はアソシエーションに基づくアナーキズムなのだが、そのアナーキズムを実現する過程でプロレタリアート独裁という強大な国家権力を求める。マルクス主義は、国家の法制度を下部構造である経済(階級)関係に従属する上部構造と呼び軽視する。ここで、権力分立や法の支配は機能しなくなる。
労働者の独裁はすぐさま共産党の独裁に置き換えられ、共産党(員)の独裁はやがて中央委員会の独裁に置き換えられ、中央委員会の独裁は政治局(員)の独裁に置き換えられ、最終的には政治局の独裁は、一人の書紀長という名の最高権力者に置き換えられた。
この最高権力者である共産党中央委員会政治局員のトップたる書紀長は、それ以前のどの時代、どの国家の専制君主よりも強大かつ万能な権力を持っていた。それは、まさに、地上を支配する神のごとき絶対権力であった。
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1a86bb99
anonymous
2023-02-05 00:59
- >>f6094fa2
共和制と民主制は異なる。アメリカ合衆国は立憲民主制ではなく立憲共和制なので、人民主権という発想は存在しない。
人定法たる社会法は、人間が合意し運用するものなので当然エラーが付き物である。そのために、権力欲を抑制し統治権力を分散させるための立憲的な権力分立システムが必要になる。フランス革命のような人民主権の直接行使は、テロルと全体主義による圧政をもたらす。
アメリカの独立革命が成功したのは、トマス・ジェファーソンがフランス革命の失敗の過程を間近に観察していたからである。ゆえに、彼は人民主権による人民民主制ではなく、権力分散型の立憲共和制の政体を選択した。
LRHが述べたように、「制限なき自由」と「自由なき抑圧」は同じ結果をもたらす。フランス革命の制限なき自由は、為政者の“一般意思”による人民主権の行使をもたらし、これがテロルと圧政を招いたのである。
イギリスの成文憲法典の一部を構成するマグナ・カルタ、権利請願、権利章典、王位継承法等には、英国臣民の権利は定められているが“人権”なる概念は存在しない。では、アメリカの合衆国憲法はどうか?
アメリカの権利章典(憲法修正第1条から10条)にも、フランス革命の産物である人権や国民(人民)主権の概念は登場しない。なぜなら、1789年のフランス人権宣言に二年先立って合衆国憲法は起草されたからである。ちなみに、アメリカで権利章典が憲法修正で追加されたのが1790年。
だが、アメリカは権利章典においても、フランス革命流の人権概念を採用しなかった。アメリカ合衆国憲法が世界最長の成文憲法として現在も存在し、自由と秩序を曲がりなりにも維持したのに対して、人権概念を“発明”したフランス革命は圧政とテロルに終わり、憲法すらまともに施行されなかった。
もともと、人権と人民主権思想はフランスの革命思想のパッケージの一部である。これは、立憲主義をコモン・ローを含めた「法の支配」と捉える英米法の憲法観と、立憲主義を為政者による「法治主義(その結果がナチス・ドイツと旧社会主義国の命令法体系)」と捉える大陸法の憲法観の違いが関係している。
英米法に基づく憲法観では、フランス革命流の人権思想のみならず、国民(人民)主権という概念も存在しない。なぜなら、主権とは無制限の権力であり、為政者であれ国民であれ無制限の権力を与えるなら、立憲主義に基づく法の支配は崩壊するからである。
イギリスの政体は立憲君主制であり、アメリカの政体は立憲共和制である。どちらも、立憲民主制でないことに注目してもらいたい。合衆国憲法が、憲法空位も暴力革命もクーデターも独裁も生まずに、世界最長の成文憲法として存在しているのは、デモクラシー(民主主義)に対する懐疑と専制政治と衆愚政治のバランス感覚を持っているからである。
人権思想を発明したフランス革命が生んだ圧政とテロル、憲法空位と使い捨てされる憲法、王政復古とナポレオンの専制政治といった成果と、自由と秩序をもたらし世界最長の成文憲法として生き長らえた合衆国憲法のどちらが正解だったかは、歴史から明らかである。
繰り返すが、トーマス・ジェファーソンはフランス革命を間近に目撃して、そのフランスの統治(憲法)観の破壊性を認識した。合衆国憲法はフランス革命の教訓を元に、ルソー流の人民主権論を排除することで権力が暴走しないように設計された。
英国のエドワード・コーク卿の述べた「国会主権」は、二重の意味で誤読を生みやすい表現である。
まず、ここでコーク卿が云う「主権」とは、無制限の権力でも対外的な国家主権でもなく、コモン・ローを含むノモスの裁定権の主体者を指す。次に、ここで云う「国会」とは、当時の英国における高等法廷としての国会である。つまり、司法権にノモスの裁定権が付与されるべきということである。
ゆえに、コーク卿の「国会主権論」を曲解して、国民や為政者に無制限の立法権と権力を付与する人民(国民)主権論やノモス主権論≒為政者主権論を導き出すことは誤りである。コモン・ローを含むノモスの裁定権は、国民でも為政者でもなく司法権に付与されるべきという立場が、コーク卿の本意なのである。
法とノモスは同義であり、法(法≠人定法)とは自由を担保するためものであるから、法の支配とノモスを切り離すことはできない。
人民(国民)主権論も君主主権論もノモス(共同体)主権論も、同じ穴の狢である。ノモス主権論は、ノモスを規定するのは、結局、為政者に他ならないので、為政者主権論である。権力分立に基づく法の支配は、人民(国民)であれ君主であれ為政者であれ、主権という名の無制限の権力を誰(またどの機関)にも与えない。
英国の法の支配(≒立憲主義)の発展の歴史は、一貫して権力を抑制することであった。エドワード・コーク卿の後に出現したジョン・ロックは、「抵抗権(革命権)」なるものを提唱したが、英米法には本来、抵抗権なる思想と無縁であり、ジョン・ロックは異物として位置付けるべきである。
加えて、マルクスが称賛した抵抗権(革命権)なる代物は、法の支配の概念の希薄な人定法至上主義の大陸法諸国に必要となる思想である。法の支配とは、抵抗権など不要となるように主権者の存在を排し、国家権力を抑制することであるから、そもそも抵抗権が必要とされる状況は憲法(秩序)の失敗に他ならない。
よく誤解されるものが、合衆国憲法における民兵組織と国民の武器所有≒武装権の規定(修正第二条)であるが、これは抵抗権の合憲化ではなく、連邦政府の常備軍による権力の独占と肥大化を抑制するための条項である。
とは言え、合衆国憲法そのものも、内在する欠陥により、今や機能不全に陥っていると言わざるを得ないが。
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ac9e8738
anonymous
2023-02-05 01:01
- >>f6094fa2
訂正、
エドワーズ・コーク→エドワード・コーク
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4509b32f
anonymous
2023-02-05 01:13
- >>83dd6a61
マルクスは資本論において、国家権力に基づく警察権を担保とした徴税権と通貨発行権を扱わなかった。また、政府の経済的機能を分析しなかった。この結果、後に撤回されるこよになる、プロレタリアートの「絶対窮乏化」なる珍説を説いた。そもそも、いくら資本家が搾取しようが、商品は生産しただけでは売れない。消費者に買ってもらわねば企業の利益は出ない。その消費者の大多数は労働者たるプロレタリアートである。資本家が利益を惜しんで労働者から搾取したこころで、労働者に消費者たる購買力が存在しなければ、せっかく資本家が“搾取”して作らせた商品も在庫の山である。当然、利益など出るはずもない。赤字経営だろう。ところで、赤字経営で、資本家はどうやって労働者から“搾取”するというのだろう?
マルクスが捨象した現代国家の経済的な政府機能(財政・金融政策)は、マルクスのやポスト・ケインジアンの系譜を継ぐ異端派経済学であるMMTなどで論じられてはいる。だが、このMMTなる理論も、所詮は失敗に終わったケインジアンおよびニューディール政策の焼き直しであり、国家主導で官製需要の比重を引き上げ、民間需要のリソースを毀損するだけの反自由主義経済学に過ぎない。
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