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f491781a anonymous 2025-03-20 18:27
>もしLRHが「Not-isness をやめるだけで理解が回復する」ことを見抜いていたら、菜園は無駄なプロセスを経ずに悟りへ至る最短ルートを示す究極のシステムになっていたかもしれない。

>彼(LRH)は「Not-As-isness(創造の否定)」を理解できなかったため、「Not-isness」という誤った概念を作り、菜園の理論を「悟りに至る最小の橋(ブリッジ)」から遠ざけてしまった。

これは、LRHの最大の失敗であり、老子の無為こそが「最短で悟りに至る方法」であると考えるのが妥当であろう。

>老子の無為は、意図の衝突を最もシンプルに解く方法である。

「何かをしない」のではなく、「意図がぶつからないようにする」ことで、意図が流動し、『有』が固定化しなくなる。

このシンプルな方法こそが、悟りに至る最短の道であり、最も簡単な方法である。

しかし、この簡単さゆえに、多くの人は遠回りしてしまってるかもしれない。

⇨LRHは、古今東西のあらゆる宗教体系や神秘主義の思想と方法論を調査しました。さらに、神秘主義の領域に精密科学と工学の方法論を適用しました。

その上で、LRHは「エネルギー≒力≒プラーナ≒電子」の問題を処理しないと悟りに至れないことを正しく認識しました。エネルギーのメカニズムに無知なヒンドゥー教やパーリ経典に依拠するテーラワーダ仏教(≠ゴータマ・シッダールタのオリジナルの仏教)では、力(エネルギー)の問題から逃避するという逆コースで悟り(解脱)に至ろうとします。しかし、力から逃げても何も問題は解決しません。力に直面(≒アズイズ)し、力をコントロールして、力を降服せしめなければならないのです。「生存」の範疇(スケール)を越えた先に、つまり、生存の極みにおいて「存在(ただ在る)」があるのです。そして、所有性の極みにおいて「無欲」という能力を得る(回復する)のです。「離欲」という痩せ我慢(反生存的努力)によって「無欲」に至るのではないのです。ノット・イズネスの逆フローを避けるために、力からの逃避という反生存のベクトルに向かうのは、セイタンをして、よりMESTに近付けるだけの無駄な努力(骨折り損)なのです。

悟り(解脱)が、そのように簡単で単純な問題であったなら、どれだけ素晴らしいことでしょうか。しかし、残念ながら、現実はそうではないのです。MESTを構成する集合宇宙一つを創造するために、どれだけの複雑で果てしなく長遠の努力が費やされたかを考えるだけで、この私たちの住む集合宇宙(スペースオペラ・ユニバース)から脱出するだけでも至難の業だと理解できるでしょう。そして、多くの人類が、その努力の過程で奈落の底に堕ちてしまったのです。複雑さを紐解くには、その複雑さを生んだ問題を一つ一つ辛抱強く処理していく(紐解いていく)以外に道はありません。絡まった毛糸と同じです。絡まった毛糸とは、MESTの比喩そのものです。複雑さに直面し、その絡まりを一つ一つ解いていった先に、久遠元初の以来の本地[ほんじ]の回復としての悟り(解脱)の成就が待っているのです。

私が語るよりも、ヴィヴェーカーナンダに語ってもらいましょう。以下、引用します。

「ある人は弱く、しかも怠け者であって、したくないからではなく、できないから力を使いません。その結果は束縛であり、自由の喪失です。もう一人の人は、自分がしようと思えば、相手に抵抗できないほどの打撃を与えることができるということを知っているにも関わらず、それでも力を使わないばかりか、敵を祝福さえします。そして、敵はいつの間にか、彼の仲間になっているのです。彼は自由です。

弱さから力を使おうとしない人間は、罪を犯しているのです。それは、どんな罪でしょうか?臆病という罪です。そして、怠惰という罪です。臆病は恐れから生じます。力を使うべき時に、力を使うことをためらう人間は、寛容ではなく怠慢(不作為)という罪を犯しているのです。弱さから力を使えない無能な人間は、無抵抗から何の利益も得ません。しかし、力を使うことができるにも関わらず、強さによってあえて力を使わない人間は大きな利益を得るのです。

第一に、闘うだけの力を持っているのかどうかを自分に問いかけなければなりません。その上で、力を持っていながら、力を使う必要がないならば、その時初めて、“真の力と勇気”を持っているといえるのです。しかし、もしあなたが、力を使うことができないにも関わらず、自分は寛容や愛という動機から、抵抗することをしないのだと信じ込もうとするのであれば、あなたは自分を欺いているのです。それは無能であり臆病であり怠惰です。その時、あなたは知っているのです。自分が、本当は無能で臆病で怠惰だから、抵抗することに無気力なだけであるということを。それは、あなたを弱めることでしょう。この不断の自己非難のプロセスは、他のいかなる弱点よりも甚だしく、悪徳を養うものです。

犯罪者は、なぜ犯罪者になったのでしょうか?それは、自尊心、つまり面目を失っているからです。そうです、無責任の結果です。責任とは、常に力を最適に扱うことであって、力の放棄ではありません。我々の第一の義務は、自分自身を憎まないということです。自分自身を憎み始めた人間は、堕落への門がすでに開かれているのです。自分を信頼できない人間は、他人を信頼することなどできません。一番大切な友人である、自分自身と友好関係を築けない人間は、他人と真に友好関係を築くことは決してできないでしょう。

『バガヴァッド・ギーター』の中でアルジュナは、彼に立ち向かう強大な軍勢を見て臆病になりました。アルジュナは、敵が自分の友人たちであり身内であるという理由で、戦うことを拒んだのです。そして、そのことを「無抵抗が愛の最高理想である」と正当化しました。彼の「愛」という正当化が、アルジュナをして彼の祖国と王への義務を忘れさせたのでした。この時、アルジュナに対して、シュリークリシュナは、「あなたは偽善者であり卑怯者である」と述べるのです。「おん身は、賢者のように“語る”。しかし、その“行動”は、おん身が卑怯者であるということを暴露する。それゆえ、立って、そして戦え!」と。

この全てから、一つの真理が見えてきます。それは、「弱さは駄目だ」ということです。人間の理想は「無恐怖」ー 何ものも恐れないこと ー です。恐怖は弱さの印です。人は、世間の嘲りや蔑みを気にすることなく、自らの責任を遂行しなければなりません。人は、「自分は自らの責任を果たすに足りるほど強い」と思うようでなくてはならず、「自分は我が理想より低いことをしている」などと思うようであってはなりません。

無活動は何としても避けなければなりません。無活動は怠惰です。活動は、常に力(エネルギー)の使用を意味し、力の使用は必ず抵抗を生みます。もしあなたが、力を使えないのであれば、まずは力を使うことを覚えなければなりません。悪をなす可能性なしに、善をもたらすことは不可能です。無活動者は失敗すらもできないほど、無能な臆病者であり怠け者なのです。ですから、彼は失敗することを覚えなくてはなりません。

人が力を用いることなく影響を与えるという最高理想に到達する前に、人は力を使うことができなくてはなりません。常に活動者でありなさい!彼をして働かしめよ!彼をして戦わしめよ!敢然として行かしめよ!そうして、彼が闘うに足り得る力を回復した時、その時に初めて、力の放棄は一つの徳になるのです。あなたが完全に力の征服を成し遂げた時、初めて平安が訪れるでしょう。その時、この力の放棄は、汝が持っている力の最高の表現へと昇華されるのです。」

所謂、真の聖者とは、一度もホモ・サピエンス程度の低い存在のスケールまで堕ちたことのない人間(ビーイング)です。彼らは、たまたまホモ・サピエンスのモックアップ(肉体)を身に纏っているかもしれませんが、修行して聖者になった(悟りを得た)わけではないのです。「修行して悟りを成就した」、あるいは「神の恩寵によって悟りを得た」などと主張(自己申告)する人間は、聖者と崇められていても二流・三流です。実際に、彼らの多くは、悟りと神の啓示(マインドコントロールの類)の区別も付いていません。

聖者が説く修行法(方法論)の問題点は、真の聖者の場合、悟りの状態から自らが堕ちたことがないので、堕落した状態から悟りの状態を回復する術に無知であるという点です。そして、「我は悟りを得たり」と宣言する自己申告の聖者の場合、多くは実際には究極の悟り(解脱)を得ておらず、奇妙な信念(信仰)に捕らわれているということです。その前提を認識した上で、サイエントロジーの手法(ブレークスルー:突破口)を捉えることで、サイエントロジーの存在価値を客観的かつ中立的に評価することができるでしょう。

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